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完全なる「漆黒の暗闇」
こんにちは じんじょ です。
あなたは、完全なる「漆黒の暗闇」を体験されたことがありますでしょうか?
わたしは東南アジア某国に駐在中、 “Dine In The Dark” というレストランで妻と食事をしたことがあります。そこは、「完全なる暗闇の中でおいしいコース料理が楽しめる」というちょっと変わったコンセプトのレストランです。
妻がどこからかウワサを聞きつけてきたようで、「おもしろそう!行ってみようよ!」ということで二人でディナーを食べに出かけました。
このレストランでは、「目の見えない人」がスタッフとして働いています。真っ暗闇の中、彼女らがお客さんを席まで案内し、料理を運んできてくれるのです。
予約当日、お店についたわたし達は玄関を入った先のホールへと案内されました。この部屋はまだ薄明かりがともっていて、赤いビロードのカーテンがおしゃれな雰囲気を漂わせています。ウェルカムドリンクをしばらく嗜んでいると、盲目の女性が現れました。どうやら彼女がわたしたちの担当としてサーブしてくれるようです。
その女性の肩に手をかけ、奥のトビラから真っ暗闇の食堂の中へと一歩ずつ歩を進めます。
そこは文字通り、漆黒の暗闇。どれくらいの広さの空間なのか、皆目見当がつきません。しばらく進むと彼女がわたしの手を誘導し、目の前にイスとテーブルがあることを教えてくれました。
イスに腰を掛け、しばらくすると料理が運ばれてきます。盲目のスタッフはわたしの手をとって、フォークとスプーンが置かれている場所まで導いてくれます。スプーンにのせた料理を口まで運ぶ動作一つとっても容易ではありません。距離感がまったくつかめないのです。
「おいしい。」
前菜から始まり、メインでは魚料理が振舞われ、デザートまでのフルコースでした。ただ、出された料理はどれ一つ、それが何であるかわかりません。
視覚を奪われた状況で味わった料理はどれも、今まで食べたことのない新しいジャンルのように感じました。
そんなちょっと不思議な体験を思い出させてくれた本がコチラ。
かわいらしい表紙に目を引かれ、思わず手に取ってしまいました。今回はこちら本について紹介していこうと思います。
自分とは異なる身体を持った存在への「想像力を啓発」する
著者の伊藤亜紗さんは東京工業大学で准教授を務められている方です。専門は美学、現代アート。
バリバリの文系のようですが、もともとは生物学者になるのが夢だったそうです。そんな伊藤先生のバイブルが『ゾウの時間ネズミの時間』という本です。
わたしもバイオが専門ですので昔読んだことがあります。けっこう有名な本ではないでしょうか。
『ゾウの時間ネズミの時間』では、生き物は体のサイズによって時間の感覚が異なる、ゾウにとっての一秒とネズミにとっての一秒はその意味が大きく違う、ということが書かれています。
伊藤先生は、ご自身が研究者を目指すことになった原体験として、以下の文章を引用されています。
足りない部分を「想像力」で補って、さまざまな生き物の時間軸を頭に描きながら、ほかの生き物と付き合っていくのが、地球を支配しはじめたヒトの責任ではないか。この想像力を啓発するのが動物学者の大切な仕事だろうと私は思っている。
『ゾウの時間ネズミの時間』 本川達雄 著
「想像力を啓発する」
ステキな響きの言葉ですね。この信念は、美学、現代アートを専門とするようになった現在の研究活動にも引き継がれており、
「目の見えない人」、つまり「自分とは異なる身体を持った存在」への「想像力を啓発」する
という意味で、本書執筆のきっかけともなっているそうです。本書は文字通り、「想像力」を羽ばたかせるためのヒントをわれわれに授けてくれます。
「すごい」という言葉が障害者を傷つけてしまうかもしれない
と、その前に、まずはわれわれ健常者が視覚障害者に対して抱いているイメージを確認してみましょう。あなたは「目の見えない人」に対してどのようなイメージをお持ちでしょうか?
もしかすると、目の見えない人は「特別な聴覚や触覚」が備わっている、という話を聞いたことがあるかもしれません。本書でも、以下のような能力が例示されています。
- 声によって女友達がお化粧をしているかどうかがわかる
- 舌打ちを続け反響音で空間を把握し器用にスケボーやバスケを楽しむ
- 壁一面の本棚から背表紙の感覚だけで目当てのタイトルを探し当てる
「すごい!」
思わず感嘆の声をあげてしまいます。こうした物珍しいエピソードは、わたしがこの本を手に取ったときから楽しみにしていたものでした。野次馬根性がうずきます。
しかし、こうした「特別視」は、障害を持つ本人たちに違和感を抱かせてしまうと言います。
「すごい」という賞賛の言葉がなぜいけないのか?と思われるかもしれません。ただ、この言葉の背景には、次のような考えが待ち構えています。すなわち、「見えない人は見える人にできることが “できない” はずだ」という考え。
本棚から本を探し当てることは、見えている人にとっては当たり前の行為です。そんなこと、目の見えない人に「できるわけがない」。蔑む意図はなかったとしても、われわれは無意識のうちに高みの見物を決め込んでしまっていたわけです。
「すごい」という言葉が障害を持つ人を傷つけてしまうこともある。
そのため、伊藤先生は、「すごい!」ではなくあえて「面白い!」と言うようにしているそうです。
「へえ、そんなやり方もあるのか!」というヒラメキを得たような感触。「面白い」の立場にたつことで、お互いの違いについて対等に語り合えるような気がしています。
『目の見えない人は世界をどう見ているのか』
まさしく、好奇の目を向けてしまっていた自分への戒めの言葉です。こうした多様性の受容は、非常に均質な社会を生きるわれわれ日本人が苦手とする分野なのかもしれません。
本書には、障害を持つ人たちと「社会の共同運営者」として対等な関係を作り出したい、という著者の願いが込められています。そのためにわれわれが「想像力」を羽ばたかせるためのヒントとして、以下の2点が提示されています。
❶ 健常者と視覚障害者の「違うところ」
❷ 健常者と視覚障害者の「似ているところ」
順を追って説明していきましょう。
❶ 違うところ:見えないからこそ視野が広い
まずは、 ❶ 違うところ について。
それは、「空間のとらえ方」です。
わかりやすいエピソードとして、著者本人の体験を紹介します。
インタビューのため視覚障害者を大学へと案内する際、最寄り駅である「大岡山」からの坂道を下っている道すがら、伊藤先生はその男性が発した言葉に大きな衝撃を受けたそうです。
「大岡山は本当に “山” なんですね。」
何年も通いなれた通勤路であるにもかかわらず、伊藤先生はこのときはじめて、駅が “山” の上にあることを認識したそうです。
一見、「見える人」のほうが、視覚を使って遠くまで空間を把握できているように思います。しかし、見えるがゆえに、両脇に立ち並ぶ建物や標識、道路の舗装などの「道」に縛られてしまう。
一方の「見えない人」は、アクセスできる情報が非常に限定的です。情報が限られているからこそ、足元で感じる傾斜から “山” という地形を俯瞰的に知覚することができる。見えないからこそ視野が広い、「空間を空間としてとらえる」ことができるのです。
こうした知覚の違いは、「富士山」や「お月さま」に対するイメージからも読み取ることができます。
われわれ健常者であれば、多くの方が以下のような平面的なイメージを思い描くのではないでしょうか。
- 「八の字末広がり」の富士山
- 「お盆のようなまあるい」お月さま
なぜ平面的なイメージとなってしまうのか?それは、非常に遠くに位置する巨大な自然物に対し、「視点」が自ずと限定されてしまうからです。また、小さい頃に読んだ昔話の絵本や、銭湯の壁に描かれたイラスト、美術館で見る絵画などの文化的な影響も多分に受けています。
一方、視覚障害者の抱くイメージは、
- 富士山は「上が欠けた三角錐」
- お月さまは「表面にまるいくぼみがある球体」
というように立体的でより概念的なものとなります。
特定の「視点」を持たないからこそ、「自分がいる立ち位置」や「文化的なバックグランド」に縛られることなく、あるがままに空間をとらえることができる。
「面白い」ですね。
こうした概念的なとらえ方は、視覚障害者の「色」の知覚にも表れています。物を見た経験のない全盲の人であっても、「色」の概念を理解できる人がいるそうです。彼らは、その色をしているモノの集合を覚えることで、「色の概念」を獲得します。
たとえば赤色は、
- リンゴ
- トマト
- くちびる
が属している「あたたかい気持ちになる色」。
黄色は、
- バナナ
- 踏切
- 卵
が属していて、「黒と組み合わせると警告を意味する色」といった具合です。
こうした話を聞くと、「目の見えない人」の住む世界が彩り鮮やかなものに思えてきます。われわれが思っている以上に、彼らは豊かなイメージの中で生きているのかもしれません。
もう一つ、興味深いエピソードを紹介させてください。
盲学校の美術の授業でツボを作るという課題が出されました。ある全盲の生徒さんは、作ったツボの内側に手を入れて、一所懸命に内面に細工を施し始めたそうです。普通であれば、せっかく付けた装飾が見えるよう、外側に細工をしそうなものです。
つまり、この目が見えないお子さんにとって、「内側」と「外側」は等価なものだったんですね。視点を持たないからこその「モノのとらえ方」がリアルに実感できるお話です。
❷ 似ているところ:「点字を理解する」ことは健常者の「見る・読む」能力に近い
続いて、 ❷ 似ているところ について。
それは「感覚と能力」にまつわるものです。
はてさて、健常者と視覚障害者の「感覚と能力」がどのように類似しているのでしょうか?疑問に思われたかもしれません。
説明のために、われわれの「点字」に対する誤解を取り上げさせてください。
「目の見えない人」と言われて「点字」を連想する方は大勢いらっしゃるかと思いますが、実際に「点字」を扱うことができる人はそう多くありません。日本の視覚障害書の点字識字率は、わずか12.6%にとどまるそうです。
その理由として以下の点があげられています。
- 外国語の学習と同じように、点字も小学校高学年くらいまでに習わないと、なかなか早く読めるレベルには到達できない
- 紙を裏返すとパターンが反転してしまう特有の難しさがある
- テクノロジーの進歩によるボイスレコーダーや音声読み上げソフトの普及
若者の「活字離れ」と同様に、視覚障害者の中でも若い世代ほど「点字離れ」が進んでいるそうです。
そしてここがポイントなのですが、点字が理解できる能力は、その人がすぐれた「触覚」を持っていることを意味するわけではありません。「点字が理解できること」と、「産地が異なる2種類のタオルを触って違いがわかる」ことはまったくの別モノなのです。
むしろ点字を理解する能力は、「触って感じる」というよりも、われわれ健常者にとっての「見る・読む」能力に近いと言います。
「点字が読める」能力は、われわれ健常者にとっても決して未知の能力ではありません。視覚障害者の優れた「触覚」を駆使した、特別な技能でもありません。「視覚」という感覚が欠損しているからといって、「見る・読む」という能力が失われているということにはならないのです。
「感覚」器官と「能力」は必ずしも一対一で対応するわけではない、と知ること。
以下のような事例であれば、われわれにも容易に理解できるはずです。
- 目でモノの質感をとらえる(触覚的な視覚)
- 耳で聞いた音からイメージを連想する(視覚的な聴覚)
- 甘い匂いを嗅ぐ(味覚的な嗅覚)
視覚障害者にとっての「見る」という能力の真髄は、中途失明者の経験談からうかがい知ることができます。
「最初は盲導犬を触っても、毛のかたまりでしかなかった」「触ることって大ざっぱだな、情報としては頼りないな」。でも次第に、「触る」が「見る」に接近してきたと言います。「人の体を触ったときにそこが肩だとわかると、それにつながる手や頭が『見えて』くる」ようになった。
『目の見えない人は世界をどう見ているのか』
「触る」が「見る」に近づいていく感覚。
実際に、生理学研究所の定藤規弘教授らの研究によると、見えない人が点字を読むときには、脳の視覚をつかさどる部分である視覚野が発火しているそうです。
指の感触で点字を「見る・読む」、聞こえてくる音であたりを「眺める」。「視覚」という感覚が失われていたとしても、健常者と視覚障害者の「見る・読む」能力には同質性が備わっています。
こうした類似性をベースとして、お互いの違いを認識することが、われわれの「想像力」に跳躍力をもたらしてくれるのです。
ソーシャル・ビューという取り組み:障害者が生産的な活動の「要」として働く
このように本書では、障害者を身近な存在、近しい他人と感じられるような仕掛けが施されています。
そんな障害者との有機的なかかわり合いとして、本書では ソーシャル・ビュー という取り組みが紹介されています。
ソーシャル・ビューでは、健常者数名と視覚障害者1名がグループを作って絵画を鑑賞します。当然、視覚障害者は絵を見ることができません。そのため、健常者は、絵に対する自分なりの解釈を「言語化」する必要があります。
「空というよりは海の青で、、、どんより雲った日の海、、、水面というよりは少し潜った感じ、、、」
といった具合です。
なんだかずいぶん難しそうですね!
自分の中で作品を再構築し言語化することで、お互いに「他人の目で絵画を鑑賞する」ことができる。見える人にとっても新しい美術鑑賞となります。
正解のない解釈を探し求めていく、筋書きのないライブ感。一回その楽しさを味わってしまうと、おひとりさま単位での鑑賞が物足りなくなってしまうそうです。
そしてこのワークショップで「要」としての役割を担っているのが「目の見えない」障害者です。見えないからこそ、触媒として人と人を結び付け、生産的な活動を推し進めためのエンジンとなることができる。そのため、視覚障害者は「ナビゲータ」と呼ばれています。
見える人が見えない人を導くのではなく、見えない人が見える人を導いていく。
伊藤先生は、ソーシャル・ビュー発案者である林さんの言葉を借りて、「対等な関係」の一歩先を行く、お互いに影響しあう「揺れ動く関係」と称しています。
非常に興味深い活動ですよね。ぜひ一度参加してみたいものです。
「障害」と「障碍」と「障がい」
- 目が見えない
- 耳が聞こえない
- 手足が不自由
こうした「障害」は超高齢化社会を迎えようとしている本国において非常に重要なテーマです。高齢になれば、誰もが多かれ少なかれ「障害」を抱えることになるからです。
そもそも、「障害」とは何でしょうか?
通説によると、「障害」という概念は産業の発達によって生まれた、とされています。
大量生産、大量消費の到来によって、労働力としての人間も規格化され、画一化して、障害者は「その規格から外れてしまった人」、「それが出来ない人」というレッテルを貼られることになってしまいました。
それ以前の社会では、按摩やイタコなど、見えない人には「見えないからできる」仕事が割り当てられていました。冒頭でご紹介した “Dine In The Dark” はまさしく、「見えない人」だからこそできる仕事を復活させる試みと言えそうです。
それが、産業革命以降の現代では、「見えないからできないこと」に焦点があたるようになってしまいます。ここでいう「障害」は「能力の欠如」を意味します。すなわち、障害の原因はその人本人にあるとする「個人に属する障害」です。
こうした障害のイメージに対して、1980年ごろから世界各国で疑問がつきつけられ、さまざまな論争が繰り広げられてきました。そしてわが国でも、2011年に障害者基本法が改正され、現在障害者は以下のように定義されています。
障害及び社会的障壁により継続的に日常生活又は社会生活に相当な制限を受ける状態にあるもの[1]
つまり、「障害」の原因が「個人」にあるのではなく、「社会」の側の仕組みや枠組みの方にある、と公に認められるようになったのです。
「個人モデル」vs「社会モデル」の図式で考えると、「障碍」や「障がい」という言葉遣いは「個人に属する障害」を肯定するものです。
これらの言葉は、「害」というネガティブなイメージに配慮したやさしい言葉遣いとされています。しかし、やさしさの仮面の背後には、既存の枠組みである「個人モデル」を肯定する態度が控えています。
障害者に対する「特別視」が、知らず知らずのうちに「高みの見物」となってしまっていたときと同じような構図ですね。
「障碍」や「障がい」は問題の先送りに過ぎない。表層的な対処ではなく、社会は「障害」という言葉と正面から向き合うべきだ、と伊藤先生は持論を展開されています。
かわいらしいポップな表紙のイラストとは裏腹に、良い意味で学術的で、洞察の深い内容でした。伊藤先生の思惑通り、われわれの「想像力」を羽ばたかせてくれる一冊となっています!
今までできていたことは「授かっていたもの」
最後に、超高齢化社会を控えるわれわれが「障害」をどうとらえるべきか?そのヒントになるかもしれない、非常にステキな言葉を耳にしたので紹介させてください。
それは、先日の新聞記事で読んだ上皇后美智子さまの言葉です。
美智子さまは、がん治療の副作用のため左手指が不自由になり、楽器の演奏が出来なくなってしまったことに対して、以下のようにおっしゃっているそうです。
非常に含蓄のある、奥ゆかしいお言葉に感動しました。
わたしも美智子さまのように歳をとっていきたいものですね。
最後までお読みいただきましてありがとうございました!
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[1] 障害者基本法の改正について(平成23年8月) 内閣府